那智黒由来記 仮谷梅管堂所蔵

図:仮谷梅管堂

那智黒石とは・・・・

​那智黒石がいつ頃から知られるようになったのかは定かではないが、那智黒石が商品として用いられたのは歴史的にも古く、遣唐使(619~894年)が碁石原料として土産にしたとされているほどです。
江戸時代の寛政7年(1795)に刊行された我が国初の研譜(硯譜のこと)である『和漢研譜』の日本の硯材一覧の中に「淄石(しせき)」として「紀州熊野」に産することが記載されています。紀州熊野に産する硯に適する黒い石はこの那智黒石のことで、江戸時代の中頃にはすでに上質の硯石として京の都でもよく知られていたことが示されています。

天保10年(1839)に紀州藩が編纂した『紀伊続風土記』では、「北山郷神上村山中に産する硯は上品」と高く評価されています。神川の黒石は、江戸時代には紀州藩公認の良質の硯材として採掘されていたものの、銘石という評価が高まって採掘が禁止されたようです。
​明治時代に採掘が解禁されて以後、採掘された石を用いた碁石や硯を売り出す際に熊野灘の黒玉砂利が平安時代から那智山への供物とされていたため、那智と黒石が結びつき、那智参詣の土産物として、黒石が普及していったと思われ、そのため「那智黒石」と総称したのではないかと言われています。

那智黒石 硯

石材の性質・・・・

​那智黒石は、硬い石か、軟らかい石か・・・・・。黒碁石は小さく薄いが、基盤の上にパシッと置いても割れることはありません。硯としては磨墨(まぼく)しても早くおりることはないが、時間をかけてゆっくりすれば深みのある墨色(ぼくしょく)を得ることができます。一般的な表現をすれば硬い石ということになります。
珪質(けいしつ)粘板岩と言われることもありますが、組成が緻密で硬いせいもあるのでしょうが、​珪質粘板岩の中では柔らかい部類に属すると言われています。
地質学的には、新生代新第3紀中新世の前半ごろ(今からおよそ2000万年前頃〜1400万年前頃の間)に、海底の大陸棚から大陸斜面にかけての地域に堆積形成された黒色頁岩(こくしょくけつがん)です。熊野層群は、ここ熊野市西部地方ではおよそ1500m程の厚さがありますが、そのうち大沼累層は600mの厚さで、その下部およそ140mほどの厚さで泥岩層に含まれています(日本の地質6近畿地方)。この地層が北山川や神上川の侵食によって川底に露頭が見られるようになりました。
​那智黒石は、粒子の細かい(0.1ミクロン)黒色不透明の砕屑(さいせつ)物から成り、砕屑粒子はほぼ一定方向に並んでいるので弱いへき開(一定方向に割れやすい特性)をもっています。方向を見定めて(石の目を見る)ハンマーなどでたたけば、きれいに板状に割ることができます。均質緻密で細工や加工がしやすく、磨けば磨くほど漆黒の美しい輝きを増します。

 

那智黒石の表面
那智黒石 採石場

那智黒石の里・・・・

​那智黒石は、三重県熊野市神川町(かみかわちょう)だけで産出される特別な石です。もっとも有名なものは、碁石の黒石として使われているもので、99.9%は那智黒石で作られています。
熊野市神川町は、熊野市の山間部に位置する山里ですぐ側には七色ダムがあり、ダムの完成時に植えられた多くの桜が春には一斉に花を咲かせ、以前は「神川桜祭り」が盛大に行われていましたが、現在は桜祭りを引き継ぎ、小規模ですが旧神川中学校の木造校舎前の運動場跡で祭りがおこなわれ、花が見頃になるとライトアップもされます。

静かな山里ですが、土方歳三や北海道開拓写真で有名な日本写真界の先駆者 田本研造(たもとけんぞう)は、熊野市神川町の出身で田本研造の生家跡が残っています。
町内を通る神上川(こうのうえがわ)は、北山川に流れ、やがて熊野川と合流します。林業の盛んな頃は北山川から熊野川を通り新宮市まで筏を組んで激流を乗り越え運び出されていました。
今もその名残を伝えるように少し下流の北山村では観光用の筏下りがおこなわれています。

熊野市神川町 桜祭り会場
熊野市神川町 桜の名所